それでも「同期型」であることが「共通知識」を形成する条件ではないと思うのです。

それでも「同期型」であることが「共通知識」を形成する条件ではないと思うのです。

http://d.hatena.ne.jp/shamano/20071212/1197536259

 「同期的」と「双方向的」についての定義については了解しました。

(ちなみに僕は「同時的」と呼んでいました)

 しかしその場合でもやはり「同期性」が「共通知識」を形成するという指摘には疑問があるのです。

 前の記事を書いた後に思ったのは、「単に選択肢がない(少ない)から共通知識を生んでいるのでは?」ということです。

 テレビはチャンネル数が限られていますし、ニコニコ動画の「時報」においては1つしか選択肢がない。そのことこそが「共通知識」を形成しているのであって、同期的であることは基本的には関係ないように思うのです。

 例えば同期的でない「新聞」でも「共通知識」は形成されます。これは「同期的」よりも「選択肢の少なさ」が「共通知識」を形成している証左のひとつになるのではないでしょうか。

(そしてこれが「公的情報」が「共通知識」を生成する理由でもあると思います)

 あるいは録画したテレビ番組を見ることで形成された「共通知識」は「同期的」と言えるのか、という点も疑問として残ります*1

(追記:このあたりについてはWiredVisionの連載で書かれていましたね。それを読んでのコメント

* * *

 それはそれとして。

 僕がずっと「興味のない」情報を知ることにこだわっていたのは*2、それが大きな「共通知識」を生成する方法(のひとつ)だと確信しているからなのだということに、今更ながら気付きました。

 ma.laさんが「あらゆる情報を読む」ことにこだわっているのも、ひょっとしたら同じ理由かもしれません。

(方向性は真逆ではあるけれど)

 また、おそらく「共通知識」なくしては「コミュニティ」は成立しない*3ため、「共通知識」が薄くなったネット(あるいは現代)ではコミュニティがどう変質したのか(あるいはしていないのか)が気になるところ。

 「選択」による「共通知識」という立場からすると、例えば特定の(アルファ)ブロガーの読み手はそれが「共通知識」として成立するために「コミュニティ」が成り立つのではないか、とかね。

*1:録画した時点が同時なら「同期的」であるという主張なのかもしれませんけれど。あるいは再放送(リピート放送)についてどう定義しているのかは気になるところ。

*2:ここにある一番古いのはこれだけど、もっと前(2000年くらいだったかな)から気にしてた。

*3:という論文が発表されてるでしょう。知らないけど。