それは「同期」でなくても実現するのではないでしょうか。

それは「同期」でなくても実現するのではないでしょうか。

 WiredVisionの記事を読みました。僕が書いたのは注記で書かれている「経済学的理由」ですね。

 それだけが理由で「同期的であることが共通知識を生んでいるわけではない」と思っているわけではありません。

 例えば、ニコニコ動画の「時報」が、

  1. 「あるタイミングで全ユーザーに特定の映像が流れる」ことを告知し、適当なタイミングで「時報」を流す。
  2. 全くなんの説明をせずに、全ユーザーに「時報」を流す

であった場合に、前者は「共通知識」を生むが後者は生まないのではないでしょうか。

 つまり「全ユーザーに同じ映像が流れる」という「共通知識」をもっているのが「共通知識」を生む条件なのであって、「同期」は関係ないのではないか、というのが僕の疑問。

(「みんなが見ているはず」=「公的情報」である条件は経済学的な希少性なり社会学的な説明なりがあるでしょうけれど、その説明と「同期」は関係ないのではないのか、という疑問です)

 「みんなが見ているはず」という「共通知識」があるのなら(同期か非同期かには関係なく)「共通知識」が生み出されるというのは、前述の1.もそうですし、例えば「Yahoo! Japanを見ると1度は特定のページが表示される」という広告があったとすれば*1、それは「共通知識」を生み出すはずです。

 だとすれば重要なのは「同期」ではなく「強制」「割り込み」なんじゃないか――というのがもう1つの疑問です。

 これらの疑問に対する説明はなかったと思いますので、もし「同期」が「共通知識」を生むというのであれば、そのあたりの説明を期待します。

(もしどこかで書いていて、読み飛ばしていたのならすみません)

* * *

 「何もかもがすべて非同期へと移行することはおそらくない」とは僕も思いますが、「同期」はやはり傍流だと思いますし、「同期」が本領を発揮するのはマスとしての「共通知識」ではないと思うんですよね。前述のようにマスとしての「共通知識」は他の手法で提供できるから。

 「同期」が必要になるのはおそらく「即時性」が求められる時でしょう。

 まあ、このあたりについては次回の連載で書かれるようですので、期待しています。

* * *

 同期/非同期かよりは連続/離散(あるいは有時間/無時間、実時間/虚時間)という、時間消費に関するメディアの違いのほうが大きいんじゃないか、というのが僕の持論。

 音声メディアや動画などのような連続(あるいは有時間、実時間、聴覚)メディア*2はすべての人が同じ時間を消費するのに対し、文章や画像といった離散(あるいは無時間、虚時間、視覚)メディアは人によって時間の消費量が違う。

 したがって連続メディアのほうが使う時間を強制するために共通化には強力作用するであろう――場合によっては時間を共有したという錯覚を起こすこともあるだろう――という気はします。

*1:一時期「サイトジャック」として流行っていた気がします。

*2:という用語が正しいのかは知らない。研究者的にはなんて読んでいるんだろう?