読者とユーザーの違いからいろいろ考えた
読者とユーザーの違いからいろいろ考えた
「岩本・植村・沢辺の電子書籍放談」を読んで引っかかったのが「読者とユーザーの違い」というところ:
植村 話が変わるけど、僕が最近思ったのは読者とユーザーは別だということ。読者というのは、著者と流通と小売が生む価値にお金を出してくれる人。ユーザーというのは、SNSとかブログとか携帯小説とか、フリーで動くところにいる人。読者とユーザーというのは属性で、僕らはユーザーになる時も読者になる時もある。そういうもの。
僕はこれまで何となく、出版社はユーザーまで手が届くと思っていた。でも、最近は届かないんだなって思ってる。届ける理由もないかもしれない。僕らは信頼性があって価値のあるものを読者まで届けるだけ。
ユーザーがいるところで成立する著作権の仕組みは、例えばクリエイティブコモンズみたいな世界だと思うの。みなさん、大いに読んでください、という仕組み。
繰り返しになるけど、僕らはある時は読者になるし、ある時はユーザーになっているけど、ユーザーという読者と比べるとはるかに巨大な存在に向かって出版社の手が届くと思うのは、幻想なんじゃないのかなと思う。僕らはお金を払う読者のいる場所でやればいいんだよ。ユーザーの世界がどんどん出来上がっていて、僕らは色気を出しているけどね。
ユーザーは消費するだけなんですよ。読者はちゃんと作品に対して対価を払って感動したり、味わってくれたりする。
沢辺 エリック・クラプトンが来日したら、コンサートに来てくれる人ね。
植村 そうそう。そこの場に行くことに対してちゃんと価値を払ってくれる人ね。だけど、それは別の人間としているんじゃなくて、1人の人間が、ある時はリスナー、ある時はユーザーになるんだよね。別にユーザーを下に見ているわけじゃないよ。そうじゃなくて、ソーシャルという世界観を新たにつくってくれた人たちだと思う。でも今のモデルは読者までしか見てなくて、ユーザーに対して色気を見せても意味がないかな。最近そう思っているんだ。
逆に言うと、ユーザーは放っておいたらユーザーのままで、決して読者には上がってこない。だから、魔法のiらんどの携帯小説の読者たちは、読者として育たなかった。僕らはソーシャルなコンテンツを利用することの良さやコミュニケーションの価値に気付いたけど、それとこれはちょっと別かなって。
やっぱりちゃんと手続きをやる著述業が一方にないといけない。すべてが広告モデルにいっていいとは思わない。
岩本 植村さんの見立ては正しくて、ユーザーのほうが数としては圧倒的に多い。でも、出版社は読者のいる場所でビジネスを成り立たせてきたんです。ところが、いまIT産業から提案される「プラットフォーム」というのは、「買ってくれなくてもいい。自分たちを利用して、利用料を払ってくれればいい」というものだよ。
植村 彼らはユーザーの世界でつくり上げたものを、読者の世界に落とし込んでビジネスにしようとしている。ユーザーには無料で使わせる仕組みね。それをされると、ものをつくり上げる仕組みが弱っていくんじゃないかな、という懸念はある。
岩本 ユーザーの世界で商売をしている人たちは、アクセス数だとか、そういうことを言うわけですよ。岩本・植村・沢辺の電子書籍放談 | ポット出版
気になったので、「読者とユーザーの違い」を意識していそうな方に意見を求めてみたところ、
――とのことでした。
(その節はありがとうございました)
このあたりを基点にして「読者(視聴者・プレイヤー)」と「ユーザー(利用者)」についてちょっと考えてみたいと思います。
そもそも「著作物の利用」とは何か
僕が「ユーザー(利用者)」という単語に引っかかったのは「著作物を利用する」のと「著作物を読む(見る・プレイする)」のは全くの別物だと思ったからです――例えば「本を読む」「映像を見る」「ゲームをプレイする」のと「本を使う」「映像を使う」「ゲームを使う」のとでは、言葉の意味が全く違うでしょう?
「著作物を利用する」という事が何を意味するかを改めて考えてみると、例えば「作品をもとに本を出版する」「作品を元に映像作品を作る」「作品をもとにグッズを作る」ことなんじゃないかなと。これなら確かに「利用してる(使っている)」印象があります。
要するに「最終成果物を作る(そしてそれを消費者に提供する)」のが「著作物を利用する」ってことでしょう。
(したがって「二次創作をする」のは「著作物を使っている」のであり、正しく「ユーザー」のような気がします)
そういう意味では「著作物を利用」していないにも関わらず消費者が「利用者(ユーザー)」と名乗るのはおかしい気がする――のですが、実際には「ユーザー(利用者)」という言葉は違和感なく使われている*1。そこが不思議だと思ったわけです。
「ユーザー」が利用しているのは何か
それではなぜ消費者は「ユーザー」と名乗るのか。
1つは
――であり「グッズは使うもの」だから、というのはありそうです。
(そしてそうだとすれば、「電子書籍」に対して「ユーザー」を名乗る人が多いのは、市場が未成熟であり電子書籍に価値をあまり見出していないのではないか、という気がします)
もう1つは
岩本(略)ところが、いまIT産業から提案される「プラットフォーム」というのは、「買ってくれなくてもいい。自分たちを利用して、利用料を払ってくれればいい」というものだよ。
――というもので、つまりは「著作物を利用」しているのではなく「サービスを利用」しているから「ユーザー」を名乗っているんじゃないかな。
この時の価値判断としては「サービス>著作物」なのであって、「著作物の価値は低い=お金を払いたくない」と思っている可能性は高い(だからこそサービス提供者にクレームを付けるべきところを著作物提供者にクレームを付けたりする)。
いずれにしても「読者(視聴者・プレイヤー)」に比べて「ユーザー」が「著作物に価値を感じていない」のは間違いなくて、であるなら「(価値を感じている)読者に向けて提供している人」と「(価値を感じていない)ユーザー」の話がかみ合わないのは当たり前のような気がします。
そう考えると
植村(略)僕はこれまで何となく、出版社はユーザーまで手が届くと思っていた。でも、最近は届かないんだなって思ってる。届ける理由もないかもしれない。僕らは信頼性があって価値のあるものを読者まで届けるだけ。
――という判断は、実に正しいことじゃないでしょうか。
少なくとも出版社が「ユーザー」向けに提供する必要はないように思います(少なくとも筋は悪い)。
期待すべきは「有能なサービス提供者」
こういう話を書くと「ユーザー」は当然のように文句を言ったりするのですが、ユーザーが文句を言うべきは「サービス提供者」でしょう。
サービス提供者が著作物を引っ張ってこれないのは、単に相手が納得するだけのお金を払えないからです。実際、お金さえきちんと払えば引っ張ってこれます。
現状では無能なサービス提供者がお金を払えないだけであることをきっちり認識して、「ユーザー」は「サービス提供者」に「きっちり金払って著作物を引っ張ってこいや!」と文句を言うべきじゃないでしょうか。
(なお、お金を払わずに強奪してくるのは単なる泥棒なので、やっぱり無能だと思います)
ソフトハウスがDSを選ぶように、出版社は紙媒体を選ぶ(2011-09-16追記)
プラットフォームの選択という意味では、ソフトハウスがDS/PSP/Wii/PS3/XBOX360(あるいは他のプラットフォーム)のどれかを選ぶのと同様に、出版社にも選択権があるわけですよ。
出版社としては紙媒体が鉄板で、儲かりそうなら他媒体もリリースする――これはゲームでも同じでしょ? 単に儲かりそうにないから紙以外のプラットフォームを選ばないだけ。儲かりそうならマルチ展開もする。
ゲームと違って紙媒体の強さは圧倒的で「紙媒体じゃなくてプラットフォームで出せ」っていうのは「DSじゃなくてプレイディア*2で出せ」って言うようなもんでしょ。少なくともワンダースワンやPC-FXよりも条件が悪そうです。
あるいは「出版社でプラットフォームをやれよ」ってのはソフトハウスに「新しいハード出せよ」と言うようなものですよ。ソフトハウスの独自ハードは滅多になくてアクアプラスの「P/ECE」くらいじゃないですかね?(知ってる範囲では。他は元々ハードもやってるトコだった気がする)
餅は餅屋であって、出版社はプラットフォームに手を出すよりも本業を充実させ、プラットフォームを見定めてリリースするのがいいんじゃないですかね。