「総表現社会」って「表現したい人がみんな表現できる社会」ってことで、「表現をみる人」のことは考慮の外なのですね。

総表現社会」って「表現したい人がみんな表現できる社会」ってことで、「表現をみる人」のことは考慮の外なのですね。

 ぼちぼち『ウェブ進化論』を読んでいて、ようやく「総表現社会」のトコまで読みました。

 結局のところ「総表現社会」っていうのは「表現したい人がみんな表現できる社会」ってことなのですね。

 うーん、想像してたよりつまんない話だった。

 だってさ、パソコン通信時代から「ネットにやってきた人は一定比率で表現してた」わけでしょ。インターネット時代になって「ネットにやってきた人が増えた=表現する人が増えた」程度ではあんまりインパクトないですよ。

 だからてっきり「あらゆる人が表現するようになる社会」っていう想像もつかない話でも書いてるのかと思って期待してたのに。

 それに「表現したい人が表現できる」ってのもまあ確かに凄いことではあるのかもしれないけれど、その何十倍も存在する「表現したくない人」にとってどんな意味があるのかが書かれてないのはちょっと不親切のような気がしました*1

 そもそも表現を見る人にとっては「総表現社会」なんてどうでもいいことじゃないですか。表現の絶対数が増えれば良い表現が増えるって話にもっていきたいのかもしれないけど、全然そんな気がしないんですよね。あくまで僕の過去の体験による感覚なので、うまく説明できないけど。

 「表現したものの淘汰のされ方」は確かに変わってきたけれど、表現されたものの価値とか絶対数とかは変わってないというか。

 このあたりはnoriyoさんの言うところの

いくらWeb2.0フレームワークが整おうが、それはアウトプットの敷居を下げるだけであって、人間がアウトプットするために必要なインプット作業のほうは、いまだ古典的な努力が必要だからです(本を読む、人と議論する、自分と意見を異にする人たちの話を聴く・・・などなど)。

っていうことと関係してるのかもしれません。

 こういうことを書くと「RSSが」「Folksonomyが」とかいう話になりそうな気がするんだけれど、あのへんは表現する側であるところの「編集」に便利なのであって「みる」のに便利じゃない気がするんですよ。

 個人的には「あまり興味のないモノを自然に『みる』ことができる」ようにならんかなと思ってるんですけどね。

*1:全部読むと書いてたりするのかもしれないけど。