表現したくない人のためのWeb2.0
表現したくない人のためのWeb2.0
梅田望夫さんのインタビューを読んでいたら、「総表現社会」という言葉が繰り返されていた。
チープ革命と「総表現社会」とは密接につながってくる。自分が表現しようとするモノを、不特定多数に配るのは、かなりのコストがかかった。選ばれた人だけの行為であり、メディアが中心になり、1万人に1人ぐらいの人が表現者として活躍する時代が続いていた。だが、チープ革命が「誰でも表現者になれる」という可能性をもたらした。そこで現れてくるのが「総表現社会」です。
確かに「表現したい人」にとっては梅田さんの書かれていることは正しいと思うし、表現したい人にとってはどんどん良い世界になるのだろうという気はする。
でも、そもそも「表現したい人」――岡田斗司夫さんの言うところの「プチクリ」――ってそんなに多いんだろうか。
確かに今までは「表現したいけどいろいろな制約があってできなかった」という人もそれなりにいるのかもしれないし、そういう人にとって「総表現社会」の訪れは素晴らしい、というのは分かる。
でも、ほとんどの人は別に表現なんかしたくないんじゃないだろうかという気がするんですよ。表現する必要なんか感じてないし、そんな面倒なことはしたくないというか。
梅田さんに限らずWeb2.0を巡る言説は「表現したくない人」のことは無視しているような気がするんですよ。なのでそういう「表現したくない人」も表現するようになる「総表現社会」ってなんだろう?って思ったので、ちょっと考えてみた。
現状で感じているのは、表現したくない人にとって現状のサービス*1はコストが高いんじゃないかなと。確かに金銭コストはチープ革命のおかげで下がったみたいだけど、それ以外のコストは全然下がってないし。
「表現社会」で価値が高く評価されているのはおそらく「継続」なんだけど、その継続コストはとにかく高い。『プチクリ』では「好き=才能」って言ってたけど、僕は「継続=才能」だと思うくらいに継続することは難しいことだと思ってる。
で、「表現したくない人」もたまには表現したくなって表現することもあるだろうけど、そんなものは誰にも届かないわけですよ。少なくとも現在は「表現したくない人」が表現をして多人数に見てもらえる方法は「匿名掲示板」くらいしかない。だから「匿名掲示板」がWeb2.0になるのはいいことなんじゃないかと思うのだ。たとえば中島聡さんが「Web2.0を活用する10の方法、その7」で書かれていることはそういう事なんだろうと思う*2。
あるいは何かを見た/聞いた履歴を「表現」とみなすことで「総表現社会」になるのかもしれない。そういやソニーもPLAYLOGとかはじめてたし。
でも現状のモノはあまりにも素のままで、表現としてはイマイチなんだよね。あるいは「表現」にするために、結局手間をかけなくちゃいけなかったりして、それじゃあ「受動表現」にはなってないんだよね。
まあ別に履歴じゃなくてもいいけど、とにかく些細なことをうまく加工して表現にするっていうのはアリだと思うし、個人的にはそのためのシステムを作りたいなぁなんて思ったりもするわけですけれど。
――こんな感じで「表現したくない人」も表現するようになるのがWeb2.0的な「総表現社会」なのかなと考えたりもするのですが、一方で何か違うような気もする。何が違うのかは分かんないけれど。